風味やのブログ

生きるぞ!

「じいちゃん元気かーい」と祈りについて

この前の秘密の鍋会で、「祈り」って何だろうって話が出た。それは、自分を手放さないための最後の砦だったり、これ以上この先に行けばもう戻って来れないから、何とか踏ん張るためのものである、というものだった。これを聴いて少し形は違うけれど「じいちゃん元気かーい」も祈りなのではないかと思った。

昨年じいちゃんが亡くなった。

 

じいちゃんとはいろんな話とかをするわけじゃなくて、僕がじいちゃんのお腹を触ったり、ちょっとした嫌がらせをしていちゃいちゃしていた。特に高校3年生になると、姉も兄も県外の大学に行ったことで家でじいちゃんと2人になる機会が増えた。家に帰ってきたときは、まず第一に「ただいま」で次に「じいちゃん元気かーい」だった。たまにじいちゃんが散歩で家にいない時はやけに家が静かな感じがした。

「じいちゃん元気かーい」に対するじいちゃんの答えはいつも「元気ばーい」か「元気なかばーい」だった。じいちゃんが「元気なかばーい」の時はお腹が痛い時か、頭が痛い時か目が「めちゃめちゃする」(じいちゃんがそう言ってた)ときで、少し心配した。

 

じいちゃんが亡くなって半年経った今でも一人暮らしをしている部屋で、「じいちゃん元気かーい」という言葉が口をついて出ることがある。それはふとじいちゃんを思い出してではなく、「じいちゃん元気かーい」ということによってじいちゃんのことを思い出すのだ。

 

鍋会の話では、祈りの対象が何かはわからないけど、自分が自分であるために、自分の何かを守るために祈るっていう感じだったけど、僕の「じいちゃん元気かーい」の場合では、祈りの対象がじいちゃんというふうに割とはっきりしている。祈ることで救われる(救われようとする)のが自分であるという点においては共通しているが。

 

僕が「じいちゃん元気かーい」と歌うとき、じいちゃんは生きている。今ここにはいないけど確かにそんな感じがする。僕がこの歌を唄うことで死に対する恐怖が減ったし、以前よりもじいちゃんを間近に感じられる。そのことがどうしようもなく僕の心を救う。その証拠に僕がこの歌を唄っているときはケラケラ笑っているし、とても楽しい気持ちになる。

 

僕が今読んでいる本の中に「じいちゃん元気かーい」の祈りと通ずるものがあるのではないかと思った一節があったので、紹介する。

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言語学者によって体系化されたオブジワ語の文法で、「石」にあたる単語がいのちなき存在ではなく、いのちある存在に対して通常用いられるクラスに属するもののように思えたという観察に促されて、二人は石の話に立ち戻った。ハロウェル(人類学者)はそれを聞いて途方に暮れ、「私たちが見ている周りのすべての石は生きているのだろうか?」と尋ねた。長い間考えた末にベレンズ(オブジワの首長)は、「いいや、でも、生きているものもある」と答えた。

(『人類学とは何か』24頁、カッコ内は筆者が補足)

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亡くなったじいちゃんもこの話で出てくる命がある石も、他の人から見ればただのモノであろうが、そのモノに命をもたらすのが祈りなのではないだろうか。そう信じている。

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ティム・インゴルド『人類学とは何か』奥野克巳/宮崎幸子訳、亜紀書房、2020年